KenMiki & Associates

話すデザインの搾りたて

一月もあっという間に終わりですね。コラム、なかなかアップができませんが、昨年末から今月にかけて文章をいっぱい書きました。AXIS誌の『本づくし』のコーナーに書評を書いて、続いてアイデア誌の『アンケート取材』に答えて、香港の雑誌の『メール取材』に対応して、次にGRAPHIC DESIGN IN JAPAN 2010の『THIS ONE』の推奨文と『ポスター考』の原稿準備に取りかかって、進行中の複数の仕事のコンセプトを文章化して…。「あと、なんだったっけ」。頭の中が単語や文章の断片で散らかって、文字だらけの状況です。一度、頭の中の文字をお掃除しようと思い、書き終えた文章を整理してみたら、この一ヶ月で文字数にして15,000字を超えていました。なんと、原稿用紙にして37枚半です。「ギャッ!」。それぞれの文章に書き直しや推敲が入りますから、実際には倍近く書いているわけです。(正しくは、僕の場合、書くのではなくキーボードを打っているのですが…。)
そんな状況に「ふぅ〜」と、ため息をつきながら、いま、またコラムを書きはじめています。「ため息をつくなら、書かなきゃいいじゃない」と思われるかもしれませんが、これがどっこい、溜まっている仕事にアイデアを注ぐのです。文章を書くということは、コンセプトを抽出することに他ならなくって、そこに自分の感受性や価値感を重ね言葉を紡いでいく作業じゃないですか。相手に自分の考えを伝えるのにわかりやすい比喩を見つけたり、映像を浮かべたりしながら言葉を出し入れしていると、それは、まさにコミュニケーションデザインそのものなんだと気づくのです。作曲をするのも、絵を描くのも、経営をするのも、料理をつくるのも、デザインをするのも、全部、あるイメージを描きながらコンセプトを抽出して、それぞれの分野で物語をつくっていく訳ですから文章を書くことは全てに繋がっていると思うのです。駆け出しのデザイナーの頃、文章が苦手で思うように書けず困っていた時に、ある詩人の方から「三木ちゃん、話すように書けばいいんだよ」といわれ、肩の力が「すーっ」と、抜けたことがあります。「話すようにデザインする」という僕のデザイン手法はそこから来ていて、このコラムの始まりの「話すデザイン」スタートへと繋がっていったのです。とはいえ、文章を話すようにサラサラとはなかなか書けません。どちらかというと僕の場合「ギュッ!」っと、絞り出している感じです。このコラム、「話すデザインの搾りたて」と、「絞り」と「搾り」をひっかけて洒落てみるぐらいのボキャブラリーの余裕がほしいものです。
ちなみに、文章が上手くなる秘訣を中国の詩人で文学者で歴史学者で政治家の欧陽 修(おうよう しゅう)が「三多(さんた)」という言葉で提唱しています。「三多」とは、「看多(かんた)」・「做多(さた)」・「商量多(しょうりょうた)」の三つがあって、「看多」は、手当たり次第に読むのではなく、自分が目標とする文章を選び出し、徹底的に繰り返し読むこと。「做多」は、たくさん書くことで、毎日書くこと。「商量多」は、第三者の目で厳しく推敲することだそうです。デザインに置き換えてみても一緒ですよね。

「生きる」という創造への決意

事務所の打ち合わせ室の大きなタブローの作者で、僕のコラムでもおなじみの山本画伯。彼がイタリアの個展から一時帰国した翌日、不整脈で緊急入院したのが昨年の10月。地獄の三丁目から生還して、まだ3ヶ月しか経っていないというのに無謀にも個展を開くというから驚きです。会場は大阪の老舗画廊の番(Ban)。ちなみに番画廊のロゴタイプの作者は、昨年亡くなられた日本デザイン界の巨匠、早川良雄。いろんな作家の個性を受け止める画廊の本質を見抜き、デザインの痕跡をこれっぽっちも感じさせない長期の使用に耐える普遍のロゴタイプです。
その画廊の一年の始まりが、ここ数年画伯の個展で幕開けしています。それにしても信じられない回復ぶりです。というか、ずいぶん無理をして制作したに違いありません。オープニングパーティの開催された1月18日の前日には、「空白の一日」で江川と電撃トレードをされた投手の小林繁が急死して、学生時代によく聴いたアンダーグラウンドの「ブルースの女王」浅川マキが亡くなって、「死」についての意識が僕の中でいつも以上に広がっていました。生と死の間をここ数年で2回もさまよってきた画伯が描くのは、「もう一つの自然/Another Nature」。抽象化された自然の中で静かに生成を繰り返すかのような有機的な造形。僕の眼には、生きる喜びに満ちた「いのちのダンス」のように映ります。それは、闇の中で目を閉じ、光の方向に顔を向けた時に、まぶたの奥に微かにうごめく光の脈動のような、確かな「生」への息づかいにも似ているように思えます。死の淵をさまよう恐怖の中で見つけ出す光。そこに創造の原点があるように感じるのです。つまり、「生きる」という苦悩こそが創造に試練を与えてくれるのです。
僕は、幸いなことに肉体的には死の淵をさまよった経験はいまのところありませんが、先の見えない闇の恐怖に怯え、もがきながら光を探した経験が若い頃にあります。その光が僕にとってはデザインだったのです。途方に暮れていた青春時代、何もかもが見えなくなりかけていた時にデザインに出会い、すがるように生きた思いがあります。山本浩二の作品には、夜明け前の最も暗い時間のつらさをも受け入れるような魂の躍動が感じられます。作家の生きざまや理念が絵になって表れています。個展会場で何気に撮った二人の写真。「生きる」という創造への決意を表明しているようで気に入っています。

あけましておめでとうございます。

2010年 元旦。
元日に「コラム書き初め(かきぞめ)」と、文章を綴り始めたら、いきなり「元旦」と「元日」の意味を曖昧にしか知らない自分に気づきました。「えーっと、元日は一年の最初の日で、一月一日のことでしょ!」、「あれっ!元旦は?」。子どもの頃から年賀状や書き初めで「元旦」と何度も書いてきたのによく説明がつきません。「何となくお正月」という意味で使っていたようです。「こりゃ、いかん!」。すぐに調べてみると「元旦」は、「元日の日の出=初 日の出」の事だそうです。それが転じて「元日」の朝のことを特に「元旦」と呼ぶようになったそうです。ちなみに、元旦の『旦』の文字は、太陽が地平線から昇ってくる様子を表している象形文字だとか。「なるほど!」。「元日に御来光を拝む」って、まさに「元旦」を象徴する行為なのです。いやはや、今年の始まりから何も知らない自分を知ることに…。
さて、お正月といえば、楽しみなのが年賀状。
デザインを始めてから30年以上、その年の数字を中心とした「平面から立体になる年賀状」を毎年創っていて、古い友人の中には長い間コレクションをしてくれている方もいます。「よく同じテーマでデザインが続くね!」と、感心されならがも不思議にアイデアが尽きずに今までやってこれました。若い頃は、ちょっとしたイベントやお礼状でも「表現のチャンス」と考え、事あるごとにデザインをしてきました。盲腸で手術をした時などは、仕事に復帰した日に事務所で居残り、夜中までお礼状をデザインしたこともありました。そんな日に限って上司から電話があり、「術後に夜中まで家に帰ってないとはどういうこと!」と、叱られ、「実は、事務所に残ってお礼状のデザインをしていました」と、報告して呆れられる始末です。
僕は、身近に起きる出来事をデザインを通してコミュニケーションをとるのが大好きです。みんなの喜ぶ顔を想像したり、サプライズを仕掛けたり、茶目っ気のあるアイデアが出た時には「いける!」と自分に陶酔してしまったりと、デザインが楽しくてしかたがなかった当時が思い出されます。まぁ、今でもそんなに変わりませんが…。よって年賀状は、僕にとってすごく大切なデザインの原点といっても過言じゃないのです。だからずっと数字を中心とした立体的な表現にこだわっていて、どこまでアイデアが続くか挑戦しているところがあるのです。そろそろ、違うデザインも出来るところをみなさんに披露したいのですが…。その反動か、僕の周りのほとんどの人が知らない別バージョンの年賀状が存在します。それは、子ども達が描く干支をモチーフにしたデザインで、息子から娘に絵を受け継ぎながら創っている家族用なんです。「なんと!それが、今年で十二支が揃ったのです」。ちょっと嬉しくなったので本邦初公開。このコラムをご覧のみなさんにだけの公開です。30年以上も続いている数字を中心とした立体のデザインと、12年目の十二支のデザイン。長く継続してきました。持続可能な活動が問われる社会。ずーっと続けてこれたことの感謝と共に今年の一年が始まります。
みなさんとのお付き合いがこれからも、ずーっと続いていきますように!!