KenMiki & Associates

2008

ありがとうございました。

記憶

12月20日から25日まで、『太陽の塔』をスクリーンに見立て映像を映し出す『デジタル掛け軸』と題するイベントが、大阪府吹田市の万博記念公園で開催されています。『太陽の塔』に映像作家の長谷川章さんによるデジタルで制作された100万通りのパターンが映し出されていきます。日没に合わせて始まるこのイベントは、幻想的な光が『太陽の塔』に生命を宿らせていくようでとても神秘的です。
それにしても『太陽の塔』に光のアートを重ねる着眼点に感心します。『太陽の塔』といえば、岡本太郎の傑作。1970年の大阪万博で始めて見た時、当時15歳の僕は「なんじゃ、これ!」と驚かされたものです。お祭り広場にあった大屋根を突き破るように飛び出した上半身。ウルトラマンに登場する不思議な怪獣のようで凄いインパクトがありました。
お祭り広場は、計画段階で丹下健三が率いる建築家グループがすでに大屋根を作ることで決まっていたそうですが、そこに突如として70メートルもの塔を立てるから真ん中に穴を開けろと岡本太郎がいいだしたそうです。撤回を求める建築家たちが岡本太郎の自宅まで押しかけて直談判したそうですが、滔々と哲学を語り信念を曲げなかったとのことです。そのかいあって大阪にすごいランドマークが生まれたのです。確か、『太陽の塔』の内部は当時入ることが出来、真っ赤なパビリオンだったように記憶しています。その後、万博記念公園には幾度となく出向いていますが『太陽の塔』を見る度に、天に向かい凄いエネルギーを放出しているようで強い生命力を感じます。余談ですが、岡本太郎の信念を貫く強い意志と、その造形の生命力を見習いたいと、僕の携帯電話の待ち受け画面は『太陽の塔』にしています。
その『太陽の塔』に光のアートを重ねる。まるで昼間に蓄えられた光が日没と同時に『太陽の塔』の身体の中で踊り出すような感覚。限定期間や光というその時だけで消えていく存在。カタチに残すのではなく記憶に残す行為。ここにこのイベントの真価があるように思います。
記憶。このカタチではない、脳への彫刻。
そこにもう一つの『太陽の塔』が建てられていくように思います。

1:1

ギャラリー間(MA)で開催されている安藤忠雄さんの展覧会に出かけました。
原寸大で再現された「住吉の長屋」の模型がお目当てです。その原寸大の模型、大胆にもギャラリーの展示会場と中庭を区切るガラスを取り除いてしまい、一部が展示会場に突き刺さるように建てられていました。模型といっても入り口や階段部分は本物と同じコンクリートで、一階部分には実際に入ることが可能で、安藤建築の原点ともいえる「住吉の長屋」をリアルサイズで体験することができます。中庭の上空に切り取られた空は、光や雨が降り注ぎ、内と外が一体となっていて自然の存在を強く意識させるものでした。実際、中に入ってみると想像していたよりも狭いというのが僕の正直な感想です。いろんなメディアで紹介される写真などから、この建物の勝手なスケール感を描いていたのかもしれません。以前に10分の1の模型を見たこともありましたが、やはり実際の空間に身を置くのとではずいぶん印象が違いました。
原寸に触れる。「自分の身体をものさしにする」。そこには、使いやすさや動きやすさといった「機能的価値」と、ワクワクやドキドキといった「心理的価値」の二つの価値を見つけることができます。ずいぶん前にトルコのブルーモスクに行った時に、想像を超える高い天井から差し込む光や室内にびっしりと敷かれた絨毯からしんしんと伝わってくる冬の寒さ、街中に響くコーランなど、今までに出会ったことのない体験に、自分のスケール感がどんどん小さくなっていく感じになったことがあります。いま思うと宗教建築の果てしもない大きさの中に飲み込まれていたのだと思います。いわば、「自分の身体をものさしにする」その「ものさし」を見失ったような状態です。
原寸。そのサイズは、数値上ではどこまでも1:1なのですが、眼に映る「機能的価値」と、眼には映らない「心理的価値」の二つ価値の間で揺れ動くことになります。時にして大きく、また、時にして小さく感じることもあるのです。

洗濯板

先日、映画『ALWAYS続・三丁目の夕日』が早くもテレビで放映され、僕の子供時代にあった洗濯機と洗濯板を使用する場面が描かれていました。当時の洗濯機は、映画のシーン同様に洗濯物を挟んでギューッと水を絞る2本のローラーがサイドに取り付けられており、ハンドルを「くるくる」と回転させると「のしイカ」のようになった洗濯物が出てくる仕組みでした。母の仕事を手伝うのに小さな手でローラーを回転させ、石鹸の香りのする「のしイカ」をよく作ったものです。今、思うと、なんともアナログな機械でした。厚手の服などは、上手くローラーを通らず、手で洗濯物を絞っていました。ちょっとした洗濯物などは、木製の洗濯板でゴシゴシと背中をまるめて洗っていた母の姿が記憶にあり、子ども心に「はたらく美しさ」とでもいうか、その姿の中に妙に美意識を感じたものです。よって、回転式ローラーのついた洗濯機と洗濯板は、僕の「はたらく原風景」になったように思います。当時、高度経済成長のまっただ中で家庭にいくつもの便利な電化製品が登場し始めた時代です。
さて、次のような話をずいぶん前に、Gマークの『私の選んだ一品』という本に寄稿したことがあります。それは、GOOD DESIGN賞に選ばれた商品の中から審査員がその推奨理由を語るという内容で、僕が選んだのは無印良品のとても小さな洗濯板。白い柔らかな素材の携帯用の洗濯板で、旅行バッグのポケットなどに忍ばせておくと少量洗いや部分洗いに最適だと思ったのです。もし、旅先でTシャツを汚してしまい慌てている時、鞄の中からこの洗濯板を出してくれるような女の子がいたとしたら、その人の暮らしに対する価値に触れたようなリーズナブルな生活感覚に僕なんかは「いちころ」になってしまいそうです。
この洗濯板を見つめていると、洗濯する風景が「はたらく美しさ」と相まって、心まできれいにしてくれそうなデザインだと感じます。
僕にとっての「はたらく=デザイン」は、日本人の美意識に支えられた営みの中にあるのです。

喜びをリレーする

つい最近、事務所のスタッフに子どもが誕生しました。少し落ち着いた昨日、「親になってどう?」と尋ねたところ「妙にみんなに感謝したい気持ちになりました」と、返事が戻ってきました。なんだか、とても誠実でピュアな言葉だと思いませんか。僕がずいぶん前に新米の親になった時にも同様の謙虚な気持ちになったことが蘇ってきました。生まれてきた赤ちゃんと、頑張った奥さんへの「感謝の気持ち」に加え、無事誕生するまでの幾ばくかの不安が消えた安堵な思いや、これから親として責任を持って育てる決意など、いろんな思いが入り交じって「妙にみんなに感謝したい気持ち」と、なったのではないかと思われます。
デザインをするということは、どこか自分の子どもが生まれる時のような気分で、決められた時間までに上手くアイデアが定着するだろうかと心配したり、運良く自分の思い通りのデザインが採用されても、社会の多くの人に共感してもらえるだろうかと思いにふけったりします。また、一方で、すごい才能と自画自賛して「ルンルン」とした気分になったりもします。親バカとでもいうか、完成した自分のデザインを何度も引き出してニンマリすることもあります。いろいろな理由で自分のデザインが姿を消しそうになると、とても悲しくなります。といったような訳で、僕は「一期一会」の感謝の気持ちで、与えられたテーマには自分の脳が飛び出すほど考え尽くしてデザインを進めるように心がけています。デザインを受け取った方がそのデザインを次の誰かに思わず届けたくなるような「喜びをリレーする」デザイン。
それが僕の理想とするデザインです。